事件から結果的に世論に変化が生まれても事件自体を必要だったと思ってはいけない
私は普段スマートフォンのインターネットブラウザにchromeを利用していて、スマートフォンのchromeでは新しく空白のページを作成するとあなたへのおすすめの記事をGoogleが選んで持ってきてくれます。
正直精度はあまり褒めれたものではなく『ユーチューバーのことを調べてたってことは・・・ゆた〇んの近況炎上記事とか好きやろ!!』って感じで知り合いに同じことをされたら付き合いを止めることを考えるレベルのおすすめをしてきます。ですがたまーに忘れていたニュースの近況やあまり詳しく調べていなかった商品の発売告知記事などを持ってきてくれるので下手な鉄砲も数撃ちゃ当たると思いながら普段からその機能を活用してきました。
ですが、今日Googleが持ってきたおすすめ記事があまりに私の思想とかけ離れ文句の一つも言いたくなる気持ちになったので今回は愚痴ろうと思います。
まず前提として私は最近流行っている美術品を対象とした環境保護団体の攻撃のニュースを検索したのをきっかけとしてGoogleはいろいろな記事を今までにおすすめしてきました。
そのほとんどが美術手帖の記事で方向性としては『美術品への攻撃は許されることではない』という感じでした。
止まらぬ作品への攻撃。フェルメール《真珠の耳飾りの少女》が環境活動家の標的に
https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/26228
私としても同じ考えを持っていて、相手がどれだけ正しく崇高な考えを広めるためと言えど何に対しての攻撃事体が許されることはないと思っています。
そんな感じでGoogleのおすすめしてくる環境保護団体の美術品への攻撃ニュースを読んでいたら今日こんな記事をお勧めされました。
「ゴッホ名画にスープ投げ」を理解せぬ日本の欠点
https://toyokeizai.net/articles/-/631285
この記事では環境団体はデモや抗議文など健全な方法で声を上げていたがその声は国家などの大勢派には届かなかったので確実に声を届けるために美術品へ攻撃をおこない、統計を取るとその行いを見たイギリス人の66%の人間がこの行動を容認している。それに対し日本は環境団体の声を届けず行動だけをみてテロリストのように報道し扱っているのはよくないとライターが考えを書いています。
私がこの記事で引っかかったのはライターが少数派が声を大勢に届けるためなら関係のない事件を起こしてコメントを残し、大勢に対して疑問の火種を残すことを良くないが方法としては手段として残っていると考えているようなところです。
はっきり言ってそんなわけがないと私は思っていますがこの話の面倒なところは実際に世の中はそれに近い方法で問題が解決してきたことがあります。
阿部元首相が暗殺されたとき犯人はとある宗教団体との関与が許せなかったので殺そうと思ったと発言し、2022年現在自民党はその宗教団体との関与をなくそうと奔走しこのままだとその宗教団体はカルト指定もされそうな勢いです。(かなり端折って書いてます、細かいところだと教団への恨みから関係者を殺そうと思って殺されたらしいので犯人は事件によって教団をどうこうしようと考えての犯行ではないです。)
はっきり言って関与していた人間を殺しても宗教団体の被害者が助かるわけではないのですが、この事件がきっかけとなり世論の変化が大きな流れとなり問題解決に続いたことだと思います、実際この事件が無かったら例年と変わらない活動をしていた政治団体の話が急に今年広まるはずありませんでした。
私はここまで大きな話題になるには殺人事件レベルの話題性は必要だったと考えます。暗殺のインパクトの大きさはとても凄く人々が殺人事件を忘れる前に犯人の供述の公開、実際の関与の確認へととてもスピーディーに進んで問題への対応がされそうになっています。
この流れからインターネットには阿部元首相は必要な犠牲だった、この事件によって多くの人が助かるから殺人は必要だった(もしくは仕方なかった)という人もいます。
話を戻します、美術品にスープをかけることで大ニュースになるのは確実な事で犯人の声明も基本公開されます。
そうすると普段話題になってもすぐ消えてしまう環境保護の考えも事件と一緒に広まるわけです。
だからといって美術品に対しての攻撃は少数派の声を届ける方法として認めて良いはずがありません。
私は事件とそれによって起こった流れは切り離して考えるべきだと考えます。
美術品に対しての攻撃にどんな理由があろうと攻撃が必要な理由などあるはずがありません。
たとえ美術品にスープをかけた人が言っていることが正しいと世界が判断しこの事件を起点にこの先エコロジーな世界が広がったとしても美術品への攻撃が機転として必要だったと考えてはいけない。
器物破損事件はどこまで行っても器物破損事件です。どれだけ正しく尊い考えが広まると言っても器物破損をしていいことにしてはいけない。
これは人間が文明を維持するために必要な考え方です、考えを広めるために必要な犠牲があると皆が思ってしまったら秩序など簡単に崩壊します。
阿部元首相の暗殺もそうです、殺人は殺人ですし犯人は殺人犯です。その行いはのちに起きた大きな流れを生んだとしても切り離して考えるべきで、この流れを生むために必要な殺人だったなど考える必要はないです。
そもそも東洋経済の記事のように美術品の攻撃に対してメッセージを感じるのも自由ですが器物破損事件を器物破損事件として感じる人に対して理解力が浅いと言うのはおかしなことです。